感情の残滓

最近、町屋のあるところによく行きます。もちろん、写真を撮りに。ギャラリーにはその写真とともに、その町についての解説を少し書いていますが、大抵は江戸時代前後に城下町であったり、自治が認められて商業が盛んだったりして大いに栄えた町です。そんな町が今ではすっかり寂れてしまっています。どの町も町屋の立派さを見ると、当時の栄華が偲ばれるのですが、今では綺麗な町並みの寂れた町でしかありません。大宇陀などは電車すら通っていません。要するに現世的栄華からはかけ離れているわけです。

私は歴史に疎い人間なので、「誰々がこの町を治めた」などという記述を読んでも「誰それ?」ということになってしまうのですが、その町には歴史的な出来事とは関係なく、人が生活していたことくらいは分かります。しかも、何百年もの間ずっと。そういう時、ふと何ともいえない気持ちになることがあります。

例えば戦国時代にまで遡ることのできる町だとすれば、500年もの間、その場所で人は生活してきたわけです。その人たちは、当然ながら基本的に私と同じ人間で、楽しいこともあれば哀しいこともあって、憤ることもあったでしょう。私は今のところ20年間という短い期間しか生きていませんが、いろいろと出来事がありましたし、精一杯ではないにしても、いろいろと考えながら、ちょっと大変なことも、楽しいこともあったりしてここまで来ました。でもその町には500年もの間、ずっと人が生活してきたわけです。もちろん今も。そして、その生活に密着するカタチで、膨大な感情が生じたはずです。感情は記憶と同様にそう強固なものではありません。いつかは消えていくものです。強烈な感情でない限り、昨日の感情を思い出すことすら困難です。しかし私には、それらの感情の残滓は町に蓄積されているように感じられます。そして、それがふと私の心に流れ込んでくることがあるのです。唐突に。そうすると、ある種の感情の波が押し寄せ、それが行き過ぎた後は、台風一過のようにおだやかになります。

いろいろと考えたのですが、その感情というのは、「今までいろんなタイプの膨大な数の人間が生活してきて、いろんな感情を抱いて生き続けて、そして死んで行ったんだな。そして、私もそういうふうに生きて行くんだな」ということの実感であるようです。こうして文章にすると、馬鹿みたいに当たり前のことですが。

誰にでも大小を問わなければ悩みや気になることがあります。同様に楽しいこと、嬉しいこともあって、まぁ、生きているわけです。でも、それらは個別的なものだと捉えています。私の悩みや喜びはあなたのものではありません。でも、上述のような状態になると、それが個別的なものでありながら、一瞬そうでないような気になります。今の私の悩みや喜びは、以前に誰かが悩み喜んだものなのではないか。完全に同じでないにしても、そのヴァリエーションでしかないのではないか、という気持ちになるのです。

すると心がすっとします。自分が何かに属しているんだ、ひとりじゃないんだ、みんな同じなんだと実感することによって、緊張がほぐれて、落ち着くのだと思います。私は基本的にみんなと同じであることを拒絶し、誰とも違っていたいと考えているので、気付かないところで気を張っているからなのかも知れませんが。

ただ、こういう感情が毎回起こるわけではありません。何かの引き金のような風景や音や匂いがあるのかも知れませんが、それは分かりません。私にとってはあまりに唐突に押し寄せてくるものなのです。

私はこれを求めて町を撮るわけではありません。古い町並みの均整の取れた美しさが好きで撮りに行くのですが、町と人とは切り離せないのも確かです。だから、この感情はどんな町でも起きる可能性があります。しかし、あまり身近な町では、いろいろと雑念が入り込んでダメなような気がするので、旅行先の町などの見知らぬ町の方がいいようには思います。そう考えると、普通のありきたりの町を歩いてみるのもいいかも知れません。

執筆日不明